お知らせ

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日本酪農乳業史研究会の近況をお知らせ致します。

  

■2024年(令和6年)1月1日

 令和6年新年ご挨拶

日本酪農乳業史研究会
会 長 矢澤好幸

明けましておめでとうございます。

 会員の皆様方におかれましては、お元気で新年を迎えてご清栄のことと存じます。お陰様で2008(平成20)年.設立以来、本年で15年を迎える事ができました。これも会員の皆様のご支援を頂いて今日があることに心より深く感謝を申し上げます。
活動として研究誌は20号を発刊し、酪農・乳業史の研究論文を各号に掲載してきました。そして各研究者の論文が本誌から引用され成果を上げる事が出来ました。加えてシンポジウムは東京を中心に開催してきましたが、コロナ対策に対応するためZOOM でも行い多くの会員さんのご協力と参加を頂いてきました。
反面今日の酪農乳業と同様に多くの課題を抱えていますが、会員も高齢化が進むと共に訃報を聞く会員も多く、加えてパソコン・AI時代を迎え厳しい対応が求められ弱体化に与儀なくされているのが現状です。
 しかし、酪農乳業が今日まで歩んできた道は、先人の幾多の苦難を乗り越えてきた歴史があります。これらを後世に残すために研究会の使命を果たさねばなりません。本年度の事業は「シンポジウム」の開催と「酪農乳業史研究」など小誌を発刊したいと考えています。
 昨今の各研究団体の活動方法をみると苦慮していると聞きますが、当研究会も同様に活動運営には厳しい問題を抱えています。今年は役員改選でもあり、会員の皆様と共によい知恵を見出して活動をしていくことが喫緊の課題であります。
 会員に寄り添い、厳しさを乗り越えていくために、会員の皆様方の変わらぬご支援とご鞭撻を心からお願い申し上げ新年の挨拶にします。

   

■2023年(令和5年)3月11日

会員各位

 2023年度総会・シンポジウムへの参加には、Zoomへの登録が必要です。

 事前に、以下のURLより氏名とメールアドレスの登録をお願いいたします。

 登録されたメールアドレスへ、Zoomの招待メールが届きます。

Video Conferencing, Web Conferencing, Webinars, Screen Sharing
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2023年度総会・シンポジウム

日時:2023年4月15日(土) 

総会:12時~12時45分(予定)

シンポジウム:13時~17時

    
テーマ:北海道における酪農乳業の展開と協同組合の役割(仮)

現在の北海道酪農は、これまでの数年間と打って変わって、非常に厳しい経営環境に置かれている。その中で、減産に舵を切ったことで、ホクレンはじめ農協による共販体制が、畜産経営安定法による指定団体制度の見直しによる影響もあり、岐路に立たされている。この機会に、戦前、戦後を通して、協同組合による共販を作り上げてきた歴史を振り返り、その意義と役割について改めて考えたい。

方法:オンライン(終了後YouTubeなどで限定配信する予定です。)

報告者(敬称略):
安宅一夫 (酪農学園大学)
井上将文(北海道大学)
高宮英敏(酪農乳業速報)
モデレーター 前田浩史(ミルク1万年の会)

ホスト 佐藤奨平(日本大学生物資源科学部食品ビジネス学科) 

共同ホスト 小糸健太郎(酪農学園大学国際経済学研究室)

報告要旨(敬称略)
安宅一夫(酪農学園大学) 未曾有の酪農危機を歴史に学ぶ

1.北海道酪農の夜明け:幕末から明治維新の国家政策(開拓使)によって他の地に先駆け、近代酪農が導入された。エドウィン・ダンの功績はよく知られているが、酪農(Dairy Farming)を最初に紹介したのは札幌農学校初代教頭(学長)クラーク博士だ。博士は帰国時に認めた札幌農黌第一年報(1877)で、当時デンマークから輸入されていたバターや米国の煉乳を北海道で自給すべきと提案。

2.牛乳搾取業と最初の酪農組合の誕生:1886年北海道で最初の牛乳搾取業者岩淵利助が誕生。1895年宇都宮仙太郎が10数名の仲間と札幌牛乳搾取業組合を設立。ビール粕の共同購入と技術・情報普及。

3.牛乳の余剰と練乳事業の勃興と牛乳出荷組合:明治後期から大正初め、余剰乳処理として煉乳会社の創業、合併、拡大。1915年、北海道煉乳株式会社の出荷業者は札幌牛乳販売組合を結成、1917年には組織を強化し札幌酪農組合と改称、乳価交渉や飼料の共同購入を行い、組合員に備荒救済のため乳代5%の据置貯金を課した。

4.北海道製酪販売組合連合会(酪連)の設立:関東大震災により、海外からの援助や物資確保のため関税撤廃で、乳価値下げや受乳拒否によって窮地に陥った酪農民を救うため酪連(1926)が設立された。デンマークモデルの組合でバターを中心とする製酪事業を行った。
 協同組合の神様と呼ばれる賀川豊彦は、ベストセラーの小説『乳と蜜の流るゝ郷』の文中の登場人物に「…あの寒い北海道で農民が困っていないところを見ると、やり方によつちゃあ村は救えますねえ。組合を作るなら、札幌の酪農組合のような、しつかりしたものを是非作りたいものですなあ…」といわせている。酪連は酪農における協同組合のモデルとして評価されている。

5.現在の我が国の酪農の危機的状況は未曾有である。我が国の酪農の歴史は苦難の連続であったが、先人は忍耐と努力でこれを克服してきた。既往を省みて将来に資することができれば幸いである。

井上将文(北海道大学) 昭和戦前期における連続凶作と北海道酪農の形成

1930 年以降の昭和恐慌の北海道への波及は、森永、明治等の乳業資本が、乳牛飼養農家 の生産する生乳の買い取りを拒否する原因となった。このため、この時期すでに北海道有数の酪農地帯を形成していた八雲町や酪農村の形成が志向されていた安平村では、乳業資本 が生乳の買い取りを拒否したために、余剰乳の発生が懸念される事態となった。 このように、乳牛飼養農家の販路が閉ざされしまった中、各地の生乳の販路となったのが、北海道製酪販売組合連合会(酪連、現在の雪印メグミルクの前身)であった。酪連は、各町村の農家が組織する産業組合から生乳を買い取り、製酪事業を拡大させていった。この時期、各町村の産業組合は、農林省の主導で進められていた経済更生計画に沿って、酪農事業を推進した。特に、芽室村(十勝支庁管内)、苫前村(留萌支庁管内)、八雲町(渡島支庁管内)、 安平村(胆振支庁管内)の各町村では、経済更生計画に基づいた酪農事業の成果が顕著であり、これらの町村の酪農振興計画は、酪連の進出を想定したものであった。各地の産業組合にとって酪連が販路として強固であった理由の一つとしては、酪連が、北 海道第二期拓殖計画(第二期拓計)の補助対象となっていたことが挙げられる。第二期拓計の策定には、黒沢酉蔵、深沢吉平ら酪連の関係者が関与していた。各地の産業組合が酪農事業を拡大し得た一因は、酪連という、国策に基づいて補助されていた企業の存在が大きかっ たと見なすことができる。

高宮英敏(株式会社酪農乳業速報)北海道酪農発展に果たした酪連を中心とする産業組合の歴史と業績(仮題)

①北海道で酪農組織が誕生したのは、明治28年頃に設立されたといわれる札幌牛乳搾取業組合である。この組織の組合員が、北海道練乳に生乳を出荷するようになり大正4年、札幌牛乳販売組合(任意組合)を設立、続いて同6年に札幌酪農組合(酪農と名のついた初の組織)へと発展した。札幌酪農組合は組合員の据置貯金(乳代の百分の5の天引)を原資に大正9年、有限責任札幌酪農信用販売購買生産組合(サツラク農協の前身)を設立したが、この組合が我が国初の産業組合法による酪農法人組織である。同組合はその後、保証責任札幌酪農信用販売購買利用組合となり、戦後、農協法による札幌酪農業協同組合を経て今日のサツラク農協に発展している。

②先の札幌牛乳搾取業組合は札幌麦酒醸造所(サッポロビールの前身)から乳牛の飼料となるビール粕の払い下げを受けるために設立された。毎月4日に精算行ったことから通称4日会またはビール粕組合といわれ、長く宇都宮仙太郎が組合長を務めた。宇都宮は明治40年に渡米( 2度目)、民間では我が国で初めてホルスタインの種牡牛を輸入、デンマーク農法を導入したりした。また4日会同志の黒澤酉蔵、佐藤善七らと相図り大正14年、北海道製酪販売組合(翌年、北海道製酪販売組合連合会、酪連、雪印乳業の前身)を設立した。酪連はさらに昭和8年、社団法人北海道酪農義塾(酪農学園の前身)を設立、酪農青年の育成にも乗り出した。

③戦前、酪連(雪印乳業)は積雪寒冷地の北海道に冷害に強い酪農を広範に普及させ北海道酪農の基礎づくりを行った。設立を主導した酪農学園が、酪農乳業界に幾多の人材を送り出した役割(功績)も大きい。こう見てくると北海道酪農の基(源流)は札幌牛乳搾取業組合にあるといえる。同組合は今日も変わらず事業を続けており、平成5年に創立128周年を迎える。

④産業組合法によって設立された酪連は、戦時色が強くなった昭和16年、森永練乳(森永乳業の前身)、明治製菓(明治乳業の前身)、極東練乳(後に明治乳業が買収)と大同合併、有限会社北海道興農公社(翌年株式会社)となった。同公社は終戦後、民主化を求める酪農家の要求から北海道バター(後にクロバー乳業)と雪印乳業に分社化することになるが、産業組合が会社組織に大きく変貌し酪農発展を担った功罪。

  

■2018年(平成30年)2月16日

明治維新150周年に思う(2)

小泉八雲と鴻生舎牛乳

山陰の松江市に1890(明治23)年に赴任した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン=1850?1904)は、日本各地に伝わる怪談、奇談を独自の解釈を加え情緒豊かな文学作品に仕上げた「耳無芳一」や「雪女」は余りにも有名である。
松江士族の娘小泉セツと結婚して居宅(富田屋)を構えた。八雲は毎日牛乳を飲んだ記録が残っている。
富田屋へ毎日牛乳を配達したのは、1873(明治6)に原文助が創業した牛乳製造販売「鴻生舎・こうせいしゃ」であった。牛舎、処理所、家屋敷併せて3haの地所を持って中央街で商売をしていた。
隣地は松江病院(現松江日赤病院)で、写真によると、大きな門構えに颯爽と配達車を並べた配達人の姿と、大きな看板には「松江病院御用達」「蒸気消毒牛乳(殺菌)」とある。71年間、松江地方の牛乳普及啓蒙をはかり1944(昭和19)年に惜しくも終焉している。
往時を偲ぶ法被、コップなど末裔の6代目が保存しているという。(写真・湖都松江vol8より)

          写真は鴻生舎の牛乳配達員

■2018年(平成30年)1月19日

明治維新150周年に思う。

今年は明治維新150周年に当たり、各所で近代化の変遷史のイベントがあるようです。酪農乳業界もその足跡の情報収集に取り組んでいます。

明治期に活躍した西郷隆盛を語る、大河ドラマ「西郷ドン」もその一環で、その山場は明治10(1877)年に勃発した西南の役でした。
鹿児島酪農の先駆者・知識兼雄が経営する吉野牧場も戦火のため、牛を奪われ、畜舎、家屋、製乳設備など灰燼に帰してしまいました。
兼雄とその娘恵津は女ながら抜刀して畜舎を守りましたが、衆寡敵せず牛一頭残しただけでした。
(しかし知識兼雄は翌年政府から授産資金1万円借り再興を図りました。)

その模様は当時の鹿児島新聞に「吉次山放牛の圖」として錦絵が掲載されました。
官軍が闘う畜舎の前で牛が暴れている様子をリアルに描かれ後世に残しています。

鹿児島新聞「吉次山放牛の圖」

現在「酪農乳業史研究(NO15)」2月中旬の発刊を目途に編集作業を進めています。(編集委員会)

■2017年(平成29年)9月16日

牛の草の食べ方と歯の役割

牛は長い舌をのばし、巻きつけるようにして草を口の中にいれます。
そして微生物(びせいぶつ)が消化しやすいように奥歯ですりつぶすようにかみくだきます。
このため牛の前歯は下あごにしかありません。
上顎(うえあご)は歯茎(板)だけです。


この時大切な役目を果たすのが唾液(だえき)です。
唾液は乾いた草をしめらせ、飲み込みやすくする働きがあり、唾液の量は一日100~150リットルにもなると言われます。


又牛の歯の本数は32本です。
特徴は下の前歯8本ありますが上の前歯ありません。
奥歯は左右3本です。


成長していく過程で乳歯が永久歯に生えかわります。
歯が生えかわる時は、何となく口が気持ち悪くなり、牛によって餌(えさ)喰(く)いが悪くなると言われます。
この時に歯が生え変わり、餌槽(えさそう)に歯が落ちます。
餌槽を掃除するときに喰(くい)残(のこ)しの牧草と一緒に堆肥化(たいひか)されます。
その後畑に散布(さんぷ)するので畑の土から発掘される事があります。

牛の歯は虫歯になりません。
理由は反芻(はんすう)動物(どうぶつ)だからです。
〈1日12時間反芻し唾液で歯をみがく。〉
また、虫歯菌が好むのは砂糖ですが牛は糖分の少ない牧草を常食するからです。


標本になっている歯は、水戸市徳川牧場(徳川好子さん)の畑で発掘されたものです。

(公益財団法人中田俊男記念財団牛乳博物館提供)

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